フィリピン残留日本兵小野田寛郎 ルバング島での30年戦争と戦後の貢献

小野田寛郎(おのだひろお)さんをご存知ですか?

第二次世界大戦中にフィリピンのルバング島に派遣され、戦後も約30年戦闘を続けたことで有名です。フィリピンに関係する有名人の1人ですね。

今回は小野田寛郎さんについて詳しく調べてみました。

目次

第二次世界大戦中の小野田寛郎

小野田寛郎さんは1922年生まれ。元陸軍少尉です。

中学校卒業後、貿易会社に就職し、中華民国勤務になります。

1942年に徴兵検査を受けて陸軍に入隊、1944年12月にはフィリピンに派遣されます。師団長の横山静雄中将から以下の訓示を受け、これが戦後のゲリラ戦に繋がったとされます。

「玉砕は一切まかりならぬ。3年でも、5年でも頑張れ。必ず迎えに行く。それまで兵隊が1人でも残っている間は、ヤシの実を齧ってでもその兵隊を使って頑張ってくれ。いいか、重ねて言うが、玉砕は絶対に許さん。わかったな」

Wikipedia

1944年12月31日ルバング島に着任。1945年8月を過ぎても任務解除の命令が届かなかったためルバング島の密林で情報収集と諜報活動を続けます

終戦後の小野田寛郎

当時は4人で活動していましたが、1950年一等兵赤津勇一が投降したことで、ルバング島に小野田ら3人の残留日本兵がいることがわかりました

フィリピンは1946年にアメリカから独立しますが、小野田らはその後も国内にとどまるアメリカ軍との戦闘を続けます。

ターシャ
ターシャ

上官の命令は絶対でした

それだけでなく、祖国のために戦い続けます

1974年に救助されるまでの29年間で日本は大きく経済成長し、小野田寛郎自身もそれを知っていました。捜索隊が残していった新聞には1964年の東京オリンピックや東海道新幹線開業などのニュースもありましたが、小野田はアメリカの傀儡政権だと思ったそうです。

また、朝鮮戦争やベトナム戦争に向かうアメリカ軍機を見て、戦争が継続していると思い込みます。

1954年には伍長島田庄一が、1972年には上等兵小塚金七が戦死し、ルバング島の残留日本兵は小野田寛郎1人となりました。

小野田寛郎の救助

小野田寛郎さんの発見、救助には鈴木紀夫という青年が関わっています。鈴木は大学を中退し、バックパッカーとして世界を巡るような人物でした。

ニワトリ
ニワトリ

パンダ、小野田寛郎、雪男に会いたいという変わった若者

セブユキさん
セブユキさん

若くして海外を放浪する点では通じるところがあります

1972年に小野田寛郎に会うためにルバング島に向かい、1974年2月、小野田との接触に成功します。鈴木は状況を説明し、帰国を促しましたが、小野田は上官の命令がない限り動かないと拒否します。

3月9日にかつての上官から任務解除、帰国命令が下り小野田寛郎は投降しました

マラカニアン宮殿で行われた投降式にはマルコス大統領も出席しました。小野田は3月12日に日本へ帰国しました。

参考:鈴木紀夫-Wikipedia

小野田寛郎の戦後

小野田寛郎にとっての戦後は1974年からです

帰国の際に「天皇陛下万歳」と叫んだこと、民間のフィリピン人を死傷したこと、本当に敗戦を知らなかったのかなどの疑問からマスコミから批判も受けました。

フィリピンでは恩赦になり、その功労がフィリピン空軍博物館に展示されています。

小野田寛郎は帰国後マスコミに付け回されて苦しみました。そして「これは命をかけて守ろうとした日本ではない」として半年後、帰国後に結婚した妻とともにブラジルに移住します

晩年は健全な日本人の育成のため1989年に「財団法人小野田自然塾」を設立、保守系の活動家として日本を守る国民会議、日本会議代表委員などを歴任しました。

2014年、91歳で亡くなりました。

残留日本兵

1945年8月の終戦後、何らかの理由により帰国しなかった日本兵は約1万人いたそうです。中には現地で暮らすことを決めた人、帰国後の生活に絶望した人、復員船は撃沈されるというデマを信じた人、小野田寛郎さんのように終戦を知らなかった人などがいます。

フィリピンのミンダナオ島では、2005年にも残留日本兵が2人いるとの情報がありましたが、発見されませんでした。

2021年時点で終戦から76年経っており、さすがにもう残留日本兵が発見されることはなさそうですが、その子どもや孫などの国籍認定については今でも問題になっています

横井庄一

残留日本兵として小野田寛郎さんとともによく語られるのが、1972年にグアムから帰国した横井庄一さんです

横井庄一は1972年までグアムのジャングルで生活し、帰国の際は「恥をしのんで帰ってまいりました」と伝え、記者会見では「恥ずかしながら生きながらえておりました」と発言しました。「恥ずかしながら帰って参りました」がその年の流行語になっています

ただ、経緯は似たようなものですが、この2人は対極のものとして語られます。

理由としては、小野田寛郎は将校(少尉)、横井庄一は下士官(軍曹)であり、小野田は終戦後も戦闘を続け立派な軍人と評されたこと、横井はすぐに日本の社会に馴染んだが、小野田は半年後にブラジルに移住したことなどが挙げられます。

2人の対談も企画されていましたが、横井が兵器である銃剣を穴掘り道具として使ったことを聞いた小野田が拒否したそうです。

と、横井庄一さんに批判的になってしまいましたが、戦後27年ジャングルで生活するだけでもすごいことだと思います。

まとめ

フィリピンの歴史や戦争の歴史を勉強する上で、小野田寛郎さんはぜひ知っておくべきです。僕は自伝も読みました。

「守りたかった日本ではない」としてブラジルに移住するのも感慨深いですが、その後日本に帰国し、青少年の健全な育成に尽力するところも素晴らしいです。

ルバング島はまだ行ったことがありませんが、フィリピンに7,000以上ある島のうちぜひ行ってみたい島のひとつです。

参考:小野田寛郎-Wikipedia

たった一人の30年戦争 小野田寛郎 著

Hiroo Onoda, Japanese soldier who long refused to surrender, dies at 91-CNN

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コメント

コメント一覧 (2件)

  • 小野田さんには大きな影も有りますからフィリピンでは話したくない事柄ですね。

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