マニュエル・ケソン(Manuel Quezon)はフィリピンの第2代大統領で、フィリピン自治領(フィリピンコモンウェルス)の初代大統領です。
ちょっとややこしいですが、簡単に解説します。
フィリピン自治領(フィリピンコモンウェルス)とは
1898年6月12日、フィリピンはスペインからの独立を果たし、フィリピン第一共和国(マロロス共和国)ができたわけですが、1901年には米比戦争によってアメリカの支配下となります。
そこからアメリカの植民地でしたが、1929年の世界恐慌でアメリカも苦しくなります。問題だったのはフィリピンで農作物が安くできることで、これがアメリカ本土の農業を苦しめます。結局アメリカはフィリピンを独立させ、輸入品として関税をかけることにしました。
1935年11月、フィリピンの独立のための準備をする暫定政府としてできたのがコモンウェルスです。フィリピン独立法で、10年後の7月4日に独立することも約束されました。
マニュエル・ケソンはコモンウェルスの初代大統領とも言え、フィリピンでは通算2代目の大統領として数えられます。
マニュエル・ケソン
1878年、現在のアウロラ州で生まれ、16歳で大学を卒業、アメリカからの独立運動に参加するため、エミリオ・アギナルドの革命軍に参加します。
その後、別の大学の法学部を卒業し、司法試験に合格しました。1905年には州知事に、1907年には議員に当選します。
1909年には駐米委員に任命され、1916年、フィリピン自治法の成立に尽力し二院制議会の上院議長に就任しました。
そしてフィリピンコモンウェルスができた1935年、総選挙で大統領に就任します。候補には、エミリオ・アギナルドもいました。
再選した1941年、太平洋戦争が始まると、1942年にフィリピンは日本によって占領されました。マニュエル・ケソンは、マッカーサーと同じくコレヒドール島からオーストラリアへ脱出し、その後、渡米して亡命政府を樹立します。
1944年8月1日、ニューヨーク州で肺結核によって亡くなりました。遺体は自身の名前から付けられたケソン市に葬られています。
1967年からは、20ペソ紙幣に肖像が使われています。
また、ケソン市のケソンメモリアルサークルにはモニュメントや博物館があります。計画都市のケソンは、ここを中心にできています。
フィリピン語の父
元々フィリピンには言語がたくさんあり、島が違えば会話ができないため不便でした。そこでコモンウェルスはフィリピン語協会を創設し、ケソンが会長になります。国内共通言語の開発が目的でした。
1937年、マニラとその周辺で話されていたタガログ語を、国語であるフィリピン語に指定しました。1987年には憲法で公用語に定められています。
しかし、フィリピン語は人工の言語に過ぎず、タガログ語と同じとする人もいれば、教科書の言語とする人もいます。この辺は日本人が国語の教科書の言葉を話さないのと同じような感じです。現在も国内の言語はたくさんあり、タガログ語はテレビで話される、日本でいう標準語のようなものです。
例えばセブの人はタガログ語を理解できますが話しません。
まとめ
マニュエル・ケソンは、エミリオ・アギナルドやアンドレス・ボニファシオのような派手な活躍はありません。コモンウェルスの初代大統領で、アメリカからの独立に関わります。
その功績は、紙幣や都市の名前になるほどです。
参考:Wikipedia
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