フィリピンでは12月30日は、リサール記念日という祝日です。
今までに何人かフィリピンの英雄をご紹介してきましたが、今回は僕が好きなホセ・リサールをざっくりとご紹介します。
ホセ・リサールの生涯
幼少期
ホセ・リサールは1861年に生まれたフィリピンの革命家で、フィリピン独立運動で活躍しました。医師、著作家、画家、学者でもあります。
父親は中国人とマレー人、母親は日本人とスペイン人の血が混ざっています。
8歳でタガログ語とスペイン語を身につけると、16歳で現在のアテネオ大学に入学して農学を学び、サント・トマス大学では医学を学びました。1882年にはスペインのマドリード大学に留学し医学部と哲文学部に入学します。
留学
マドリード大学でリサールは猛勉強し、26歳までにスペイン語、フランス語、イタリア語、ポルトガル語、カタルーニャ語、中国語、英語、ドイツ語、オランダ語、スウェーデン語、ロシア語、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語、サンスクリット語などの諸言語を習得し、中国語、日本語、タガログ語、ビサヤ語、イロカノ語を研究していた。
Wikipedia
ちょっとレベルが違いすぎてよく分かりません。
マドリード大学を出たあとは、フランスのパリ大学で眼科学を、ドイツのハイデルベルク大学、ライプツィヒ大学、ベルリン大学で医学と社会学を学びます。ドイツ滞在中には小説『ノリ・メ・タンヘレ(我に触れるな)』を出版しました。
1887年にフィリピンに帰国しますが、小説が反植民地的だと問題にされ、身の危険を感じて再びヨーロッパに留学します。今回は日本とアメリカ経由でした。
1888年には横浜に到着し、日本には2ヶ月滞在しました。
その後、アメリカ経由でイギリスへ渡り、大英博物館や、ベルギー、パリの図書館に通いながら、スペインによる植民地化以前のフィリピンの歴史を研究しました。
1891年には帰国しようとしますが、反植民地主義が危険視されて帰国が叶わず、香港で眼科医を開業します。
帰国後
1892年、フィリピンに帰国後、「ラ・リガ・フィリピナ(フィリピン同盟)」を組織すべく活動しました。その思想的立場は急進的な革命を望むものではなく、スペイン治下のまま暴力を用いずに穏健な改革を望むものでしたが、その方針をも危険視され、ミンダナオ島に流刑にされます。
ミンダナオ島では、医者、教師として活動しながら、地質、昆虫、動物についての研究もします。
本日、12月30日のCebu Daily Newsにコラムがあります。タイトルにExileとありますが、亡命、追放、流刑という意味があるみたいです。
1896年、流刑を終え軍医として認められましたが、スペイン海軍の船でキューバへ向かう途中、秘密結社カティプナンが独立闘争を開始し、リサールはスペインで逮捕されました。
マニラへ送致され、12月26日、軍法会議で銃殺刑が宣告されます。12月30日、マニラで処刑されました。
リサールの死後、アンドレス・ボニファシオやエミリオ・アギナルドらによって独立戦争が起き、1898年フィリピンはついにスペインからの独立を果たします。
現在のホセ・リサール
現在は『ノリ・メ・タンヘレ』と『エル・フィリブステリスモ』という小説が有名で、植民地時代のフィリピンの様子が書かれており、フィリピン人の独立への機運を高めるものでした。
リサール記念日
リサール処刑の2年後、1898年にフィリピンはスペインから独立し、エミリオ・アギナルドが初代大統領となりますが、同年アギナルドによって12月30日はRizal Day(リサール記念日)に指定されます。
1901年フィリピンを支配していたアメリカにより、リサールはフィリピンの国民的英雄と名付けられ、1902年には法律で祝日と定められます。
1948年にはイベントの荘厳さを強調するために、当日は闘鶏、競馬、ハイアライが禁止という法律もできました。
記念碑、記念像
リサールが処刑された地は、リサール公園として整備されており、記念碑があります。また、サンチャゴ要塞内には、リサール記念館もあります。
東京には1ヶ月滞在していましたが、これを記念して日比谷公園にホセ・リサール記念像があります。
1888年に、ここまで日本と関わりが深いフィリピン人がいるのはすごいことだと思います。2ヶ月の滞在で通訳できるほどの日本語を身につけ、アメリカ行きの船では日本人を助けたみたいです。
東京に行く機会があれば、ぜひ一度見てみたいですね。
名前、肖像
1949年から1973年の1ペソまたは2ペソ紙幣に肖像が使用され、現在も1ペソ硬貨にはリサールの肖像が使われています。
2020年6月には、フィリピン海軍の最新フリゲートに「ホセ・リサール」と名付けられました。他にも、通りの名前になったり、新しい国名の候補になったりと、リサールの名前はいつまでも残り続けます。
まとめ
ホセ・リサールは、武器を持って独立戦争で戦った人ではありませんが、スペインの植民地支配を批判した知識人です。
知力で革命運動を指導し、フィリピンに教育そのものを与えた人物で、フィリピン人は学校で必ずホセ・リサールについて勉強します。
参考:Wikipedia
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