フェルディナンド・マルコスは、フィリピンの第10代大統領で、日本人にとっては独裁者として有名です。1965年の大統領就任から1986年の革命で打倒されるまで、約20年にわたって権力を握りました。
汚職や不正が取り沙汰される一方で、一時的にはインフラ整備、失業率の減少、治安の改善などの実績もあり、フィリピン人の中にも未だにマルコスを支持する声はあります。
今回はマルコス大統領をご紹介します。
フェルディナンド・マルコス
幼少期~学生時代~戦争
フェルディナンド・エドラリン・マルコス(Ferdinand Edralin Marcos)は、1917年9月11日、ルソン島の北イロコス州で生まれました。父親は弁護士で国会議員、母親は教師でした。
1937年、名門フィリピン大学法学部にいたころ、父親と対立していた下院議員暗殺の容疑で起訴されます。有罪となりマニュエル・ケソン大統領による恩赦も拒否、刑務所で司法試験の勉強をして過ごします。翌年、最高裁判所で無罪となり、後に司法試験にも合格します。
1942年1月には日本軍がフィリピンに進軍してきたため、マルコスはフィリピン自治領軍として日本軍との戦争になります。
マルコスの伝記によれば、敵兵50人を殺害、捕虜となって拷問を受けたが反撃して脱出したと記されています。また、バタアン死の行進からも脱出しています。これらの実績は後の政治的成功の要因となりましたが、アメリカの記録には残っていません。
議員時代
1946年から1947年まで、マニュエル・ロハス大統領の補佐官を務め、1949年には下院議員に当選しました。1959年に上院議員になると、1962年から1965年まで上院議長を務めました。
1954年にはミス・マニラのイメルダ・マルコスと結婚。3人の子どもがいます。(他に17人の非嫡出子がいるという噂もあります。)
1965年の大統領選挙に出馬し、現職のマカパガルを破って大統領に就任しました。
大統領としての実績
マルコス大統領就任以前のフィリピンは、経済では東南アジアトップクラスだったものの、貧富の差が激しく、一部財閥が財を握り国民の大半は貧困層でした。
マルコスの政策はコメの自給や道路、学校、病院建設などのインフラ整備でした。この政策で失業率は減少しています。
また、冷戦下で共産主義国と対峙していたアメリカを支持、ベトナム戦争にフィリピン軍を派遣しました。国内ではソ連や中国からの支援を受けていたフィリピン共産党の新人民軍や少数民族のモロ人の暴徒に対して軍事行動を取りました。
こうした実績により、1969年の大統領選挙では再選されました。
ここまでは良かったかも
1971年、1935年制定の憲法修正を目的に憲法制定会議を発足させます。しかし、マルコス再選のための多数派工作が発覚してしまいます。
この辺りから独裁の気配がしてきました
戒厳令布告
その後、贅沢品の購入、都市部への人口流入によって高インフレ、失業率増加を招きます。農村部では共産党の新人民軍が結成され、学生運動に端を発した暴動や爆弾テロが起こります。
これに対してマルコス大統領は1972年9月21日、フィリピン全土に戒厳令を布告、この戒厳令で1935年憲法は停止されました。1973年、戒厳令の布告中に大統領と首相を兼任できる新憲法を制定。独裁へ向かっていくこととなります。
既存の特権階級が持つ権益は没収され、農地解放などで労働者や農民の支持を集めましたが、実際はマルコスの一族に引き継がれていました。
また、夜間外出禁止令も施行され、犯罪率は低下、これを評価する声もありますが、反対するベニグノ・アキノらは拘束され、アメリカに亡命することになります。報道統制でマスコミの弾圧も行われました。
1981年1月に予定されたローマ教皇のフィリピン訪問を前に戒厳令は解除されますが、反政府運動に対する治安権力は維持されました。同年の大統領選挙を野党はボイコットし、形式的な選挙でマルコスが当選します。
1973年に始まった観光事業の振興策と海外に出稼ぎに行くフィリピン人労働者の送金は外貨獲得の重要な手段でした。マルコス政権の初期は経済パフォーマンスは強かったものの、独裁が進むにつれて汚職が蔓延し、経済成長は見られませんでした。
革命・マルコス政権打倒
1983年8月、ベニグノ・アキノがフィリピンに帰国した際、マニラ空港で暗殺されます。
この事件は日本のテレビ番組で見ました
世界仰天ニュースとかアンビリーバボーで扱われそうな事件です
これによって反マルコス派が蜂起します
国内ではデモが起こり、海外からの観光客数は減少、経済はマイナス成長し失業率も増加しました。
同盟国アメリカからの圧力もあり、1986年に大統領選挙を行うことを余儀なくされました。野党からはベニグノ・アキノ大統領の未亡人、コラソン・アキノが出馬します。
選挙は2月7日に行われ、民間の選挙監視団体「自由選挙のための全国運動」(NAMFREL)はアキノの勝利を発表したものの、マルコスの影響下にあった中央選挙管理委員会(COMELEC)はマルコスの勝利を発表します。
マルコスによる開票操作、不正選挙は、野党だけでなくアメリカやフィリピンのカトリック教会からも非難を浴びました。
さすがにやりすぎた感がありますね
2月22日、選挙結果に反対する国民約100万人がマニラのエドゥサ通りを埋め尽くすと、2月25日にはコラソン・アキノが大統領就任宣誓を行い、国民は大統領官邸マラカニアン宮殿を包囲、マルコス夫妻はヘリコプターでハワイに亡命しました。
これのできごとを、「エドゥサ革命」、「人民革命(ピープルパワー)」などと呼び、2月25日はフィリピンの祝日になっています。
ちなみに、この時に見つかったイメルダ夫人の靴3,000足はあまりに有名です
デヴィ夫人との交流もあり、過去に放送されたイッテQの中でフィリピンに訪れたデヴィ夫人は、イメルダ夫人に会いたいと言っていました
死去後・遺体
1989年、亡命先のハワイで病没。遺体は北イロコス州にある実家の霊廟で冷凍保存されていました。
2016年、ドゥテルテ大統領と最高裁判所の決定でマニラ首都圏にある英雄墓地に土葬されます。
これに関しては支持派と反対派で物議を醸しました
また、マルコス政権崩壊後の1987年に施行された憲法で、フィリピンの大統領の任期は6年、再選禁止と制定されました。
まとめ
マルコス大統領の生涯をざっくりご紹介しました。日本では独裁者として、不正や横領、汚職にまみれた人物とされていますが、フィリピンでは一部から未だに支持があります。
マルコスの独裁の歴史から憲法は改正され、今でも大統領の任期は6年です。ただし、ドゥテルテ大統領がこれを改正しようとする動きもあるようです。
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